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燃える炎の色 聖火

1964年の東京オリンピックに因んで日本で作出された薔薇です。半剣弁高芯咲きの華やかな色合いです。白に赤の覆輪のその色の対比の鮮やかさに目を奪われます。もともとはハイブリッドとして作出されたようですが、これは枝変わりのクライミングです。

この写真は色が滲んだみたいで今ひとつ冴えませんので、次の季節にはもっと良い写真を撮りたいと思っています。

季節外れの墨田の花火

あじさいは漢字では紫陽花と書きますが、この熟字訓を考えた人は花の雰囲気をよく捉えているものと感心します。たくさんの小さな花が集まってこんもりと丸く咲くあじさいは、曇天の多い梅雨時の庭を明るくする紫の太陽みたいですもの。

写真の紫陽花は「墨田の花火」という萼紫陽花の一種です。梅雨時にふさわしいこの花が、夏の終わりの今、何だかたよりなげな花をひとつだけ咲かせました。前年の剪定を間違ってしまって、この6月には実はひとつも咲かなかったのです。「墨田の花火」が「せめてひとつだけでも見てください」と言っているようです。

萼紫陽花の外側の一見花と見えるのは、中性花といって萼の変化したものだそうです。本当の花は中のほうにある蕾のように見える地味な部分だそうです。中性花は花ではないのに美しい。歌舞伎の女形は本当の女性より美しいというのとちょっと似ています。まやかしの美しさとでも言いましょうか。

夏ももう終わります

夏中繰り返し花をつけた槿の枝に残った蝉の抜け殻。

蝉は、地下の幼虫で7年の年月を暮らし、地上に出たら1週間でその一生を終えるそうです。オスは、その1週間、精一杯の声で鳴きメスを呼び寄せ、交尾して子孫を残していくといいます。この殻の主も短い命を全うして土に還っていったでしょうか。

暑かった夏も終わりを告げ季節は巡っていきます。

茗荷って、あれは蕾と苞なのですね

夏の間素麺の薬味に重宝する茗荷は何者かと思っていましたが、あれは蕾と苞なんですね。曖昧なままにずっと食べていました。ごめんなさい。

「茗荷」という命名はこうなんだそうです。お釈迦様の弟子で物忘れがひどく自分の名前すら忘れてしまう人がいたそうです。それでお釈迦様がその人の名前を書いた札を首に下げさせました。彼の死後お墓に見慣れない草が生えてきたので、村人が荷物のように名札を下げていた彼にちなんで「茗荷」と名づけたそうです。これは受け売りです。茗荷を食べ過ぎると物忘れをするという俗説はこの説からだと納得します。

今年は蕾の出始めるのが遅かったせいか、うちの庭ではいつもなら終わっているこの時期また顔を出していました。ちなみに明日か明後日には少しクリームがかった白いひょろっとした花が咲きます。花が咲いてしまうと味が落ちるということですが、私的にはあまり差を感じません。舌が肥えていないからかもしれませんが。

風に揺れる コスモス

コスモスというと秋の少し冷たい風をイメージします。以前はコスモスは秋の花だったと思いますが、最近は品種改良されて種を蒔いてから3ヶ月で開花します。ですからコスモスは必ずしも秋の花ではなくなったのでしょう。

このコスモスも6月に1度咲きました。でも、やっぱり秋の入り口のこの時期咲いてくれるのが似つかわしいように感じます。

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